まっすぐなキュウリと曲がったキュウリ、どちらを買いますか?
GW明けから1学期中間テスト対策が始まる。
生徒たちは提出物のワークや塾から配付される対策プリントなど、「解くこと」「覚えること」を中心に勉強していくのだが、最近の生徒を見ていると、たとえば数学で途中の計算式まで合っていたのに、答えが出せず、さっきまで書いていた計算式をすべて消しゴムで消してしまう生徒がいる。
「なぜ、式まで消した?」
「間違っていると思ったからです。」
極度に失敗することを恐れている。
珍しいことではない。合っていた答えを自信の無さから消してしまう生徒は意外と多い。
今の子どもたちは何かにつけて完全を求められ、そういった教育を受けることによって子どもたち自身も完全を目指している。
自分は教育ママではない、我が子に完全を求めていないと思っていても無意識のうちにそうなってしまう要因が現代社会には溢れかえっている。
世の中には完全な「もの」が多い。
スーパーで売られている野菜はすべて完全な「もの」だ。不完全なものは店先に並ぶ前に排除されている。値段が同じでまっすぐなキュウリと曲がったキュウリが売られていたらどちらを手にするか。無意識のうちにまっすぐなキュウリを選ぶだろう。
現代では不完全なものに対する許容範囲が狭い。
いろんなことに対するマニュアル本も要因になっているかもしれない。
育児書に書かれているような「○歳で▢▢ができるようになる」というような標準的な成長過程もこの通りにならなければ我が子の成長は遅いのではないかと不安になってしまう。
マニュアル通りにならなければ不安を抱くということが完全を求めているということだ。
何も完全を目指すことを否定しているわけではない。
そもそも、人間は不完全な生き物だ。だから完全を目指すことは人間にとって理想的でごく自然な考え方だと思う。
ただし、完全を目指す前に、自分が不完全であることを認識すべきではないだろうか。
自分が担当している授業では、問題を解いた後に質問タイムに入る。問題数が多ければ全員に質問させることもあるし、質問がある生徒だけを挙手させるときもある。少しずつ、生徒たちも積極的に質問するようになり、わからないところを解決しようとする姿勢が見られる。
生徒たちにとってみれば、手を挙げて質問するということは勇気のいることだと思うが、不完全だから質問があるのは当たり前のことだし、この質問に講師が助けられているということも知ってほしい。